Suez Environmentのアルゼンチンの水道事業からの撤退をめぐって2006年からつづいていた紛争が、ようやく決着を見た。この紛争は、水道事業の民営化の是非に関する論争とも相俟って、世界中から注目を集めていた。
世界銀行のバックアップのもとに国家と民間企業のあいだの紛争を解決する仲裁裁判所、国際投資紛争解決センター(CIRDI)は2010年7月30日、ブエノスアイレスとサンタフェの上水道事業のコンセッション契約の破棄の件について、Suezに有利な裁定をくだした。両地方の水道事業は当時のネストル・キルチネル大統領によって再国有化されている。
CIRDIはSuez Environmentの非をなんら認めず、アルゼンチン政府が2006年に一方的かつ違法に契約を破棄したと認定し、賠償金の支払いを政府に命じた。賠償額は数ヵ月以内に決定されることになっている。Suez側は、利息も含めて12億ドル(約980億円)の賠償を要求している。
今回の裁定について、Suez EnvironmentのJean-Louis Chaussade CEOはこう述べている。「われわれにとってこの裁定は、1993年から2006年までの13年間にわたるコンセッション期間の努力のたまものであり、われわれはこれを誇りに思っている。困難な条件のもと、われわれは8000キロメートルの水道ネットワークを建設・更新することにより、200万のアルゼンチン人に上水道サービスを提供するとともに、新たに100万人に水道の恩恵をもたらした」
1993年、自由主義的な傾向のつよかった当時のカルロス・メネム大統領は、水道事業を民営化し、それをコンセッション契約により、当時フランスのSuezがおもに保有していたAguas Argentinasに託した。この大規模な契約は、人口1100万のブエノスアイレス首都圏における30年間の上水道サービス、およびサンタフェ州における40年間の上水道サービスのコンセッションを定めたものだった。当時のフランスの狙いは、このコンセッションをモデル・ケースとして、水道事業に関する知見を世界に示し、こうしたモデルを輸出することにあった。ところが、2001年にアルゼンチンを襲った経済危機によるペソの切り下げで、このコンセッション契約の収益性は大きく損なわれることになった。
Aguas Argentinasは、強いドルの借入で資金を得ていたが、収入は下がる一方のペソだったため、水道料金の値上げを政府に要請せざるをえない状況に追い込まれた。しかし、この要請は2003年に権力の座についたネストル・キルチネル大統領によって拒否されたばかりでなく、Suezは大衆の猛烈な批判の嵐にさらされることになった。当時を、Chaussade CEOはこう振り返る。「それでも、水道料金はラテンアメリカでいちばん安く、料金収入が少ないことで新たな水道の敷設がさまたげられた。その結果、水道の恩恵にあずかれない最も貧しいひとびとが、水売り商人に頼らざるを得ないことになり、けっきょくは、水を正当な値段で買うのは最貧のひとたちだけ、ということになってしまった」
アルゼンチンのこの水道民営化事業で、Suezはおよそ7億ユーロ(約800億円)の資金提供を余儀なくされ、その結果、子会社のLyonnaise des Eauxが危機におちいり、ボリビアのラパスで得ていたコンセッションから手を引くことになった。
CIRDIによる今回の裁定にもかかわらず、ネストル・キルチネルのあとを継いだその妻のクリスティーナ・キルチネル大統領は、エネルギー企業のSempraを相手取ったときと同じように、あらゆる手段を講じて抵抗を試みようとしている。
今回の裁定についてフランスの市民団体Sherpaの創立者であるWilliam Bourdon弁護士は、「こうした調停は国際投資家らがはじめから契約に織り込んであるもので、正式の裁判を避ける狙いがある」と指摘している。だが、いっぽうで、5つの非政府組織が自らの要求を述べるため、調停委員らとの意見交換に応じている。また、同じくフランスの市民団体ACMEのJean-Luc Touly会長は、「この件に関しては、アルゼンチン政府とSuezの双方に見通しの甘さがあった」という見かたを示している。
Chaussade CEOによれば、このアルゼンチンでの苦い経験をもとに、Suezは新興国でのビジネスのしかたを変えたという。「5年ないし7年という短期の、直接投資の必要のない水道サービスの契約をむしろ優先的に提案するようになった」と同CEOは述べている。